新選組

幕末のヒーローとして人気の新選組。その秘密は、なんといっても隊士たちの固々の魅力的なキャラクターにある。そして、時代に逆らい、滅びゆく江戸幕府に殉じた彼らの「美学」は、私たち現代人の心を今なお強く揺さぶり続ける。

ところで、新選組といえば、剣の使い手揃いとして知られているが、数ある隊士の中でも、「最強」の何相応しい人物は、一体誰なのか。

新選組について

門限は八時で、遅れたら切腹

1 新選組とは

幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保の配下として特設された、幕府の準警察組織です。当初は「壬生浪士組」と呼ばれていた。

母体は、清河八郎が幕府に提案して各地の浪人を募集して設立された「浪士組」で、幕末の討幕運動が高まる京都での、治安維持と将軍警備が目的でした。

彼らの活動、特に池田屋事件によって、明治維新が1〜2年は遅れとする指摘もあります。

2 主なメンバー

隊士の加入脱退、によりメンバーは常に変動していましたが、最盛期には、江戸市ヶ谷柳町の試衛館時代からの局長・近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、一番隊組長の沖田総司らがよく知られています。

3 「池田屋事件」て何

元治元年(1864年)6月京都三条小橋の旅館「池田屋」で起きた、新選組による事件。

この襲撃により、新撰組の名は世間に知られる一方、吉田稔麿をはじめ長州、土佐を中心とする優秀な隊士を多数を失い。以降、新撰組は最大の驚威となります。

4 「浪人の集団」と聞くと「荒れくれ者」の印象を受けるが

実際の新撰組は、個々がさまざまな技能を持つエキスパート集団でもありました。

身分問わず、高いスキルを持つ隊士が指導係となり、剣術はもちろん、槍術、柔術、さらに馬術、砲術と言った各種実技のほか、軍学、政治学、書道といった教養に至るまで、多彩にわたるワークショップ的活動にも熱心に取り組んでいました。

5 訓練は相当、厳しかった?

全てが、「実践」を想定しており、非常に厳しいものでした。とはいえ、門限は絶対厳守で、もし遅れた場合規則により、「切腹」だったと。

6 新撰組は強かった?

現次元(1864)7月に起きた「給御門の変」では、精強な長州軍により各方面で苦戦していた幕府軍の救護に駆けつけ、長州軍をことごとく撃退した。

白兵戦における新撰組の活躍は、幕府軍の中で群を抜いていたと言われています。

7 新撰組の「強さの秘密」は?

技術とは一線を画す実戦剣法でしょう。

斬り合いのおいては、相手一人に対して味方は必ず複数で勝ち向かうとか、暗殺においては相手を十分酒に酔わせる。または寝込みを襲うなど、いわゆる「正々堂々」といった精神とは無縁の線法こそが、新撰組の常用手段。

最強候補が続々、登場

一堂にひしめく「戦闘のプロ」たち

「実戦で最強」斎藤一 流派不明 撃剣師範

斎藤一は永倉新ハに「無敵の剣」のなで「新撰組最強の剣士の一人」と評された剣豪。

一説では、隊で最も多く人を斬ったとされ、さらには京中の任務においてかすり傷一つ追わなかったと言われています。

「スパイ」や「暗殺」といった特殊な任務もこなす器用さを備えています。

「剣術で最強」永倉新八 神道無念流 撃剣師範   

2番隊組長の永倉新八は、その卓起した剣の技量から、撃剣師範を務めました。

隊の生き残りの一人、阿部十郎剣術の稽古においては、永倉の方が沖田総士よりやや実力が上とされています。

「池田屋事件」でも、沖田総司らほかの隊士が続々と離脱する中、自らも手を負傷しながらも、近藤と共に最後まで修羅場を戦い抜いた超人。

「二刀流の最強」服部武雄 流派不明 

服部武雄は、その並外れた体格と豪腕を生かし、当時でも珍しかった「二刀流」を自在に操る達人。

のちに彼は「新撰組の内部抗争」によって命を奪われますが、その時は自分一人で30人を相手に死闘を繰り返していたと言われている。

二十数箇所を切られ絶命するまでに、10人以上の相手を負傷させ、死してなおその顔色はまるで生きているかのようだったとも伝えられている。

「柔術で最強」松原忠司 関口新心流 柔術師範

松原忠司は、関口新心流の使い手で、4番隊組長、柔術師範。

入隊前は、自ら道場を開いていたほどの達人、接近戦や組討ちでは彼に敵う相手はいなかったでしょう。

剣術も得意で、その風貌から「今弁慶」の異名を取りました

最強の剣士は

この人の存在無くしては新選組は語れない

「支柱として最強」近藤勇 天然理心流 局長

新選組局長・近藤勇は、非常に理知的な人物で、幕府との折激等にも対応するなど、新撰組の地位向上の大きく献上した。

もちろん、剣術においても天然理心流の宗家としての実力を有しており、池田屋事件では敵の中に飛び込み、多くの仲間が傷つき脱落する中で、永倉新八とたった二人で奮闘した。

永倉新八が手に傷を負い、刃もボロボロだったのに内して、近藤勇は最後まで無傷で、刀も刃こぼれ一つなかったという。

「生き様が最強」土方歳三 天然理心流 副長

土方歳三は、その人柄から「鬼の副長」と呼ばれ、隊士から恐れられていた存在。

しかし、隊の実質的な戦略、戦術の指導官として「新選組」の名を天下に知らしめたのは、まさに彼の功績。

幕府が滅んでなお、しの瞬間まで武士として生き様を貫いたのは彼の哲学は、時代を超え現代の私たちの心に生き続けている。

「先見性で最強」伊東甲子太郎 北辰一刀流

伊東甲子太郎は、近藤、土方に次ぐ新選組のNo.3で、深く学問にも通じ、文学師範。

佐幕派の新選組にありながら、同時に徳川幕府の限界を見通していた一人で、内部から新選組を変革しようと試みた。

坂本龍馬

倒幕の立役者の一人

簡単に言うとすれば、「龍馬は江戸幕府を倒すきっかけを作った人」といえます。当時の幕府は外国の要求を拒絶する力が無く、諸藩をまとめる力も弱くなっていました。しだいに、このような幕府では日本を守れないと考え、幕府を倒して天皇の下に統一された国家が必要だと考える人が現れました。龍馬もその一人でした。

龍馬は幕府を倒すために、まず幕府と対抗できる大きな力を持った薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。薩摩藩と長州藩は後々、武力によって幕府を倒そうと考えますが、龍馬は武力行使は最終手段だと考えていましたので、まずは大政奉還を土佐藩に提案します。この案は土佐藩から徳川慶喜に進言され、慶喜もこれを受け入れて、形式上は幕府が消滅しました。そして、龍馬は新政府が進むべき道を新政府綱領八策によって示しました。

他にはない柔軟性と明確なビジョン

龍馬がこのような大きな仕事を成し遂げられたのは、他の人と違う点をいくつか持っていたからです。まず、立場の違う人の言うこともしっかりと聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。そして、多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。新しい時代の明確なビジョンを持っていたこと。そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことです。さらに、龍馬は「世界に出たい」という自分の夢に向かって動いた人でもありました。

少年期

下級武士の末っ子

坂本龍馬は、天保6(1835)年11月15日高知城に近い本町に生まれ。父八平、母幸の子供4人兄姉があり、龍馬は末っ子である兄権平とは21歳も歳が離れており、長女千鶴とは19歳離れていた。次女栄、龍馬が最も幕っていた三女乙女は3歳年上である。

坂本家の本家は才谷屋と言う商家で、龍馬の家はそこから分家して郷士の株を取得した御用人の家です。

見当たらない落ちこぼれ説

龍馬は幼い頃の記録は残っていない。12歳から通い始めた楠山塾はすぐに辞めてしまう。一説には上士の子と喧嘩をして、喧嘩両成敗ということで父八平が辞めさせたとも言われている。この年に母幸がなくなり、以降龍馬は2番目の母伊与に教育を受ける。龍馬と乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家へ度々遊びに行っていた、「ヨーロッパ」と言うあだ名を持つ川島三郎から世界の話を聞いていた。

14歳になると龍馬は日根野道場へ入門し、小栗流の剣術などを習い始め、メキメキと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけた。

青年時代

世界へ目を向ける

剣術修行のため1853年高知を出発した龍馬は、江戸三大道場の1つである北辰一刀流の千葉定吉道場へ入門した。

同年6月には、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航し、龍馬も品川の沿岸警備に動員された。その頃父八平に宛てた手紙では、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります」と攘夷思想を示していた。しかし1年後に修行を終えて帰ってきた龍馬は、冬に河田小龍を訪ねて、世界と対等に付き合うため、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だと考えられ、攘夷の間違いを悟った。少量は絵描きだが、アメリカから11年ぶりに帰ってきたジョン万次郎から聞いた外国の話を「漂潠記略」と言う本にまとめた人物で、当時外国の事情に詳しい数少ない人物である。

土佐勤王党に加盟した脱藩へ

文久元(1861)年、27歳になった龍馬は親戚でもあり親友でもある武市瑞山率いる土佐勤王党に加盟する。去年、武市の秘書を持って萩の久坂玄瑞のもとを訪ねた。久坂から、今や大名も公卿も頼りにならず、これからは草莽の人々か立ち上がらなければならないと考えられ、2月に土佐へ帰り、その翌月には脱藩をしてしまう。

脱藩

勝海舟との出会い

江戸時代は、藩を出るときには藩の許可が必要で、関所で手形を見せなければならなかった。脱藩とは無許可で藩外に出ることで、現在で言えばパスポートを持たずに日本を出ることにあたる。文久(1862)年3月、28歳で脱藩した龍馬は長州藩に行き、そこから薩摩を目指したと言われているが定かでわない。

そして、同年秋江戸へ出て、幕府の軍艦奉行並みである勝海舟の弟子となった。勝が書いた「氷川清話」によると、龍馬は自分を殺しにきたと書いているが、前、福井藩主松平春嶽の回顧録では、春嶽が勝つへの紹介状を渡したとなっており、龍馬に殺害の意図がなかったとも考えられている。

勝つの片腕として

その後、勝は幕府から大阪湾周辺の海防を命じられ、その一環として神戸に海軍操練所を建設する。龍馬もそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門した。そこで勝の片腕として働く傍ら、海軍の修行に励んだ。

元治元(1864)年8月中旬には勝の使者として西郷隆盛と面会した。「氷川清話」によると、龍馬は「なるほど西郷というやつはわからぬやつだ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな大きな利口だろう」と勝に報告した。それを聞いた勝は、「坂本もなかな鑑識のあるやつだよ。」と書いてあった。

亀山社中時代

逆境の中で日本初の商社設立

勝の弟子となり順風満帆であった龍馬だか、元治元(1864)年6月、京都で、池田屋の変が起こり、状況が一変した。池田屋に集まる過激な尊王攘夷が、新撰組の近藤勇らによって一掃され、この中に海軍操練所からも参加者がいた。さらに7月に開門の辺が起こり、この時代にも長州藩側としても操練所の生徒が参加していた。これらが幕府の怒りを買って、勝は、江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となる。龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩の庇護の下、長崎で亀山社中という商社を作った。

大活躍からの暗転

亀山社中は、海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔をもつ特殊な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であった。龍馬はこの組織を使って、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させた。これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、これを画策した龍馬は幕府から危険人物としてマークされることになった。

寺小屋事件と新婚旅行

薩長同盟成立の2日後、寺小屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所の役人に踏み込まれた。しかし、寺小屋で働いていたお龍の機転と、長府藩士、三吉慎蔵に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。両手の親指などに深手を負った龍馬は、薩摩藩邸でお龍に介護を受け、その後お龍と結婚し、西郷隆盛や小松帯刀の務めもあって薩摩霧島山に傷の治療をたずね新婚旅行に出かけた。

大政奉還

商才を発し海援隊へ

慶応(1866)年には、幕長戦争が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。また、龍馬は蝦夷の開拓や、島根県沖の竹島の開拓を考えたり、経済人として本領も発揮していた。この龍馬に目をつけたのが土佐藩だった。薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3(1867)年当時土佐藩政の実権を握っていた参政、後藤象二郎が長崎で龍馬と会談を行い、倒幕を目論む龍馬も、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤と手を結び土佐藩に復帰した。これにより、亀山社中は海援隊と名前を変え、土佐藩の組織となって、龍馬は海援隊隊長に主任。

新国家へタクトを握る

同年6月からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還を盛り込んだ8つの策を提案した。これが船中八策と言われる。後藤はこれを前土佐藩主山内容堂に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。

謎多き龍馬の死

龍馬はその1ヶ月後に33歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺された。暗殺の実行犯は見廻組説が有力であるが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説などがあり、いまだに謎である。